2009年6月29日月曜日
Katchin'の命がけのイベント!!
こんばんわ。
今回はぼくの話ではなく、ラジオの相方であり、よき友人であるKatchin'こと片桐くんのことです。
もうすぐなんですが、7月の4日、土曜日ですね、その日に彼が彼自身の今後を占うような、ある意味今後の彼の人生を左右するかもしれない命がけのイベントを行います。実際、滅多に人頼みとかしない彼が、今回は「告知協力お願いします!」と言って来たんですから。
そのイベントの詳細は彼のHPで直に見ていただくとして、概要は、彼がDJ DISOCCILATORSとして行う企画で、下北の新しいハコでDJだけではなく、彼の先輩にあたるUCのジョニオくんのライブ・パフォーマンスである「DOLL MAKING』(その間の音楽はカンちゃんこと、高木完ちゃんが担当)をフィーチャーして、新たなライブの形を模索しようとするものです。ジョニオくんもこの企画に快諾してくれたようです。
まぁ、多くの?人たちが望むTOKYO SEX PISTOLSのリユニオンはどうやら今のところないみたいですから、こういう形で互いに協力し合いながらやってくのはいいことだと、ぼくも思う次第。ぼくの出番は今回はありませんが、見学には行くつもりです。深夜ですけどね。
ここだけの話ですが、24日にリリースされたakikoちゃんのロンナイ・リスペクト作品『HIT PARADE Tribute to LONDON NITE』も好評とのことで、その中でもi-Tunesでの評判はKatchin'のプロデュースした「Video Killed The Radio Star」が本人いわく「ダントツでトップです」との話。確かに、一番あの中でロッキンしている作りになってるのは認めます。
まずは、どんなイベントになるのか是非足を運んでやってください。声も態度もデカいけど、一番ぼくには「頑張ってる」ヤツでもあるし、彼をDJに引っ張り込んだのもぼくなんで。ヨロシクです。
詳しくはこちら。http://katchin-presents.blogspot.com/2009/06/disoscillators-presents-all-nighters.html
2009年6月24日水曜日
CROSSROADS今夜デス!
今夜です!
1969がテーマです。これはもちろんWOODSTOCK
いきなりでいつもすいません〜〜〜!!
ま、でも一応サイトには告知してありますけど・・
今夜、いつもの渋谷ハンズぞばのチェルシー・ホテル(ライブハウス)の横の通り沿いのクレタケビルの3階「Organ-Bar」にて、これかたいつものように、だいたい9時半頃から始めます。
お代は1000円。昔ながらの「昭和の香り」高いトークショー風味のビデコンです。今回のテーマは「1969」。つまり、1969年前後の音楽と時代などについてお話しつつ、映像を見たり、レコード(CD)を聴いたりして、ロックな夜をLet's Spend The Night Togetherってな感じです。
この後にはラジオの相方Katchin'のニューなイベント「オシレーター」も今夜からスタート!ですので、朝までエンジョイ出来ます。ヨロシクお願いします。
そして、また、常連のTくんが前回の「ポスト・パンク特集」の模様を音声と画像で編集してくれました!!ハタチそこそこの青年がここまでロックにこだわるか?!つーくらいの努力でコレを作ってくれたんです。ほかのも見たい、聴きたい方はYOU TUBEで「大貫憲章」で検索してみてください。HFとのスペシャの映像もいいけど、こちらもヨロシクです。
2009年6月22日月曜日
SAのニュー・アルバム!
SA『 GO BARMY KIDS 』 Pineaplle Records DDCQ-6005
裏ジャケ。彼らの「歴史」が見えてきますよ。
古い仲間から、またも新しい挨拶代わりの新作が届きました。
バンドはSA。サ、ではなく、エス エー、と読んであげて下さい
彼らとの出会い、なんて話を始めるとまた長くなるんで、ここではこのアルバムのことだけで。とはいえ、この4人のうち二人とはホントに長い付き合いになります。ギター&ボーカルのナオキは、その昔、Laughin'Noseに彼がいた頃、ですから、彼らが80年代半ばに大阪から上京した頃からの付き合い。チャーミー、ポン、ナオキにマル、というラインナップでしたね。
ボーカルのタイセイとは、もう少し後になりますが、それでも彼が前のバンドで活動していた頃からの付き合いだから、15年くらいか、もっと前?その二人がこのSAを組んで、かれこれもう10年近くになるのかな?あんまり気にしたことないんで、そのへん曖昧ですが。
で、この新作『 GO BARMY KIDS 』は4月末に出たものですが、彼らの今までの作品の中でも一番ポップと言っていいものになってますね。パンクでも巷にあふれる「パンクもどき」とは絶対に違うし、でも、ひたすらにハイテンション、ハイスピードというものでもない。経験を活かした、自分たちの今の「パンク」を歌えていて、知り合いということ抜きに、カッコいいロックなアルバムだと断言します。
なんで、こういうのが多くの人に聴かれないのかホントに不思議。単に露出がないからでしょうけど。今は何でも宣伝で決まりますからね。「タイアップ」なんてまさにSHITです。大手メーカー、代理店、放送局、所属事務所、イベンターとの「談合」の果てのスターなんて、「ああ無情」ッスよ。
とにかく、ぼくは断固支持です。コレはDO IT YOURSELFで、SOUND FROM STREETですから。
2009年6月20日土曜日
アニパンク祭り@新宿loft
写真はボケボケですいません。暗いところは携帯じゃ無理ありますね。ヘア・スタイルで分かる?ラフィンのステージ。
アニパンクの本気(マジ)なライブ・ステージに場内騒然。
楽屋でのひととき。ギュウちゃん、TAGO!、掟(ゲストMC?)ほかお馴染みの面々デス
「ペガサス幻想」から「創聖のアクエリオン」まで10曲入り。インディー流通です。XQAY-1102
昨日はぼくらの仲間、アニパンクのライブが新宿のロフトでありました。
ヒゴちゃん(aka Higo-Vicious)のブランドRISKの15周年いや、16周年をお祝いする行事のひとつとして行われました。去年15周年が都合で出来なかったので、今回、アニパンクのCDリリース記念をかねて行ったということでした。ぼくも、その中でDJで参加したんですが、なかなか、どころか大いに盛り上がってましたよ。最近、ロフトで体験したイベントでは一番お客さんもいたし、盛り上がりも凄かったんじゃないかな。ロンナイの「サマー・ジャンボリー」も負けてられません!みなさん、前売りヨロシクです!
で、アニパンクですが、まだよくご存じない、という人も多いかと思います。これは、元々、ゲルC閣下のプロジェクトで、ソノラの「日本語ロック・ナイト」から派生したようなもので、ズバリ、アニメ・ソングをパンクでアレンジして歌う、というものです。アニメタルのパンク・バージョンですね。
正直、ぼくにはアニメは範疇外なんですけど、てゆーか、そんなにアニメ好きとかじゃないし、だから、ソノラでみんながアニメ・ソングで大盛り上がりしてる時も、「???」な感じでボーゼンと眺めてました。「マジンガーZ」や「うる星やつら」とか「聖闘士星矢」とか、ぼくにはほとんど思い入れないんですよね〜。30過ぎてたし、ほかに聴きたい、見たいものあの頃たくさんありましたから。
でも、みんな仲間、つまり、ゲルC閣下はじめ、主なメンバーのヒゴちゃんやリョウとかウチのファミリーみたいなもんですから、CD作ったらコメントるよ、って気軽な気持ちで話したりしてたんです。まさか、本気でアルバム作るとは予想もしなかったんで。
そしたら、作っちゃったんですよね、コレが。ロゴまで入れた揃いのGジャンまで作ってヤル気まんまんなんですから。ですから、いきがかり上、CDの帯にコメントしました。
「あれっ?バカ!?いや天才!?アニパンクだ!!」ってフレーズです。そうです、スーパーマンの「鳥だ、飛行機だ、スーパーマンだ」からの引用つーか、パクリです。
でも、昨日のライブ見ていて、このおバカな企画が案外面白くなりかも、という予感みたいなものが閃きました。ヒゴちゃんがこれまでにやってきたパッションものとは明らかに本気度が違いました。アマチュア気分は残しつつも、気合いはプロ、とは言わないけれど、かなりなテンションまで上がってます。ぼくの周りの30前後の連中に聞いたら、収録されてる曲、ほぼみんな知っていました。まぁ、政府までが、「アニメの館」を100億以上もかけて作ろうって国ですからね。ぼくが「遅れてる」のかも。宮崎アニメも見たことないし、稲葉が愛する「エヴァ」も最初、意味が分からなかったんですから。
とにかく、昨日はそういうわけでパンクでアニメなお祭りに行き、いろんな仲間たちと会って、それが自分的には意味がありましたというお話です。あ〜、ここだけですが、このアニパンクと、昨日出演していたTHE CHERRY COKESには、年末のチッタ・Xmasロンナイに出てもらう予定です。ほかは、まだ内緒デス。
2009年6月14日日曜日
天才ギタリスト、ロリー・ギャラガーの命日でした。
TASTEのデビュー・アルバム '69
出世作72年の『LIVE IN EUROPE 』
91年の最後の来日時のポスター
6月14日はアイルランドの生んだ天才ギタリスト、ロリー・ギャラガーの命日でした。
彼が突然この世を去ったのは今から14年前の1995年の今日のこと。この年の1月、オランダ・ツアー中に倒れて、そのまま闘病生活。長い間の飲酒やストレスなどによる肝硬変ということで、病状は重く、肝臓の移植以外に助かる可能性はなかったみたいで、その手術中に合併症を起こし、帰らぬ人となりました。享年47才、あまりにも早過ぎる死でした。
ぼくが彼を初めて知ったのは、彼がイギリスでTASTEというバンドでデビューした時。あれは、いつも通っていた渋谷の道玄坂にあるヤマハのレコード売り場でレコードを試聴させてもらいながらお店に置いてあるアメリカの音楽業界誌のビルボードを何気なくめくっていた時のこと。新譜紹介の欄に、派手なオレンジ色のバックに黒で大きく人の顔のような写真がドカンとデザインされているものがあり、その異様な雰囲気に興味を抱き、慣れない英語を解読してみると、どうやら、イギリスからの新人バンドのデビュー・アルバムらしく、第二のクリームとの呼び声も高い、期待の新星というふれこみでした。
1969年、ぼくが予備校生の頃でした。
以来、ぼくにとってそのバンドとそこのリーダーでリード・ギタリスト&ボーカルのロリー・ギャラガーの名前は生涯忘れることの出来ないものとなったんです。
彼については、今までにも多くの記事やレコードの解説もしてきたし、実際に会ってインタビューしたり、楽屋まで呼んでもらったりもしました。彼は、ぼくが会った多くのミュージシャンの中でも、滅多にいないくらいの「ナイスガイ」でした。温厚で優しくて礼儀に篤く、イギリスでは人気者だったはずなのに、そういうスター気取りの感じはまるでなく、こちらが恐縮してしまうくらい、人当たりのいい好人物でした。それは、ステージの上でも同じで、海外で初めて見た73年の初渡英の「レディング・フェス」で見た時も、見事な熱演ぶりに感動したし、翌74年1月に初来日した時には、会っていんタビューもしたんですが、その時のステージも、彼のそういう人柄がにじみ出た、素晴らしいものでした。
塗装のはげ落ちた愛用のストラトに、チェックのランバージャック・シャツ、色のあせたジーンズにスニーカーというスタイルがまたよく似合っていました。そして、一番感銘を受けたのは、曲の始めに紹介して必ず「I Hope You Like It」という言葉でしめてくれたこと。
まぁ、MCなら普通かもですが、「気に入ってくれたらいいな」なんて言葉、彼が言うからこそ、よけいに心に響いたように思います。
好きなアルバムはいろいろあるけれど、思い出深いという意味で、やっぱり72年のライブ・アルバム『LIVE IN EUROPE』ですかね。実際、一番売れた作品でもあります。でも、売れた、売れないとか正直どうでもいいんです。そりゃ、彼らにしたら、セールスがよくないとクビになる恐れがあるし、暮らしも大変です。でも、そういうことに、あんまり頓着しないのが彼らしいし、イメージだけでなく、事実、パンクの後とかのニューウェーブやニューウェーブ・オブ・ブリティッシュ・ヘビーメタルの時期には、彼のブルースを基盤としたロックンロールは時代遅れとみなされ、メジャーからの契約は切られました。
彼自身も、そういう時代の状況にはあえて逆らわず、もちろん流されもせず、ひたすら自分のやるべきことをやっていました。つまり、ライブ活動をキチンとやって、自身でレーベルを立ち上げたんです。
そして91年にチッタなどで久々の来日コンサートを行い、多くの日本のファンを喜ばせてくれました。でも、残念ながらぼくはコレを見てないんですから・・・。セーソクとかはちゃんと見て来たみたいでした。後悔先に立たず、とはまさにこのこと。今度来たら行こうと決めていたら、飛び込んで来たのは実にバッドなニュース。彼が亡くなった、というものでした。それが、95年の6月14日のことでした。ちゃんと確認したのはその少し後だったかもしれませんが、とにかく、ショックでした。大げさでなくジョン・レノンが亡くなった時以上の衝撃だったと自分では思っています。ジョー・ストラマーの時と同じくらいかもです。
彼の人柄もですが、ギタープレイがまた異常に素晴らしくて、「1にロリー、2にロリー、3、4がなくて5にスタン」なんてうそぶいていた頃もあったくらいですから。つまり、エリック・クラプトンやジェフ・ベック、ジミー・ペイジのあの頃の人気ギタリスト御三家より気に入っていたということですね。ちなみに、「スタン」とはCHICKEN SHACKのスタン・ウェッブです。彼を見るためにチョークファームのラウンドハウスという今はないハコまで足を運んだくらいです。
ロリーの作品(CD、DVDなど)は今でも簡単に入手可能です。この機会に是非一度聴いてみてください。エレキだけじゃなくて、マンドリンなどのアコースティックな楽器の名手でもありました。
珍しいTASTE時代のライブです!
いよいよ発売です!
これが念願のアルバム『HIT PARADE』 ( ユニバーサル UCCJ-2076) akikoちゃんからのロンナイへのトリビュートです。
曲ごとに、こういうキュートな画面がデザインされています。ヒカル&ジョニオくんありがとう。
こんばんわ。
もうご存知の方も多いかと思いますが、ぼくらの古い友人で、今も仲良しな歌手のakikoちゃんが素晴らしいアルバムをこの24日にリリースします。題して『HIT PARADE - A Tribute to LONDON NITE』。もう、これだけで、ゴキゲンなムード満載でしょ?実際、この作品、彼女から作りたいと打ち明けられたのはもう随分と前のこと。2〜3年くらいになりますか。
でも、その時には漠然としていて、「そうなればいいね」なんていうくらいに思ってました。それが、急展開を見せたのは、去年の終わり頃。かなり具体的に進んでいて、彼女の所属してるメーカーのユニバーサルのジャズ部門もOKを出してくれたとのことでした。なんせ、彼女は言うまでもないでしょうが、普通には「ジャズ・シンガー」ですから。でも、ロンナイとの付き合いは相当長くて、彼女がまだ十代の頃からのことです。ぼくが知ったのも、もう10年以上前です。まだ歌手の卵くらいでした。
で、急に忙しく動き出して、打ち合わせとかもして、ぼくが監修というかスーパーバイザーみたいな役割をして、実際のところは彼女とメーカーの担当者がやることに。彼女はとにかく、「ロンナイで音楽をたくさん聴いて育ったんで、どういう形にせよそれを自分の歌で今に伝えたい」という強い意志があり、それに賛同するメンバーが集まり音作りやプロデューサーをしてくれています。
もちろん、ここに入りきれなかった仲間もたくさんいますが、まずはイイものが出来たと、ぼく自身も感じています。詳細はCDを手に取ってそれぞれで確認してもらうことにしますが、オープニングの「You Really Got Me」(KINKSのカバー。小西康晴くんのプロデュースです。彼はほかにも「ユー・メイ・ドリーム」(シナロケのカバー)も担当してくれました)からチャーベくんの担当したおなじみ「Break away」、ZOOTのトシミくんによるThe Clashの「Should I Stay 」、さらに高木完ちゃんによるThe Rubettesの「Sugar Baby Love」にKatchin'のRockin' & Breakin'な作りのThe Bugglesの「Video Killed The Radio Star」、スカフレームスの大川くんによるネーナのヒット「99 Red Balloons」のユニークな彼ならではのリメイク、夜ジャズ、須永辰緒くんのダウンビートな「Do The Hucklebuck」などなど、みんなが「ロンナイ」を自在にイメージしてakikoちゃんとのコラボレーションを楽しんでいるのが、よ〜く分かるものになってます。
このタイトルとジャケットのイメージを考えたのはヒカルくんで、デザインしたのはUCの高橋盾くん、推薦コメントを出したのはHFこと藤原ヒロシくん、という、まさに長いロンナイの歴史を祝うにふさわしい顔ぶれだと思います。みんなに感謝です!
発売はさ来週の水曜日24日になります。是非、ロンナイ・ファンはもちろん、そうではないポップス・ファンにも聴いてもらいたい、まさに「ヒッパレ」な楽しい作品だということは、音楽評論家、いや、音楽ファンのひとりとして断言します。
2009年6月11日木曜日
今日は渋谷のPARCOでレコードコンサート
ミクシにも書いたけど、今夜は渋谷のPARCOでのイベントで、まるでオルガン・バーの「CROSSROADS」みたいな感じの、音楽を聴いてトークする、ということをしてきました。
このイベントはHPにも出ているように、「東京1969」という、ぼくの古い知り合いの音楽関係者、立川直樹(通称ミック)さんが書いた単行本の意図にそう形で行われているいろいろな催しものの一環です。
詳しいことはHPを参照して頂くとして、やっぱりぼくの言いたいことは、今の日本にどれだけ素晴らしいロックが生き残っているのか?という素朴な疑問です。ほとんどがメディア主導の大量宣伝、大量消費タイプのものばかりで、愛やら絆やらのバーゲンみたいな歌や歌い手ばかり。中には例外的に「おおっ??!!」と思わせるものもあるけど、チャートとかランキングの中にはそういう「グッ」と来るものはまずありません。
いろいろかけて話をしましたが、みなさん、ぼくとおなじような印象を抱いている方ばかり、みたいでした。ロックでなきゃ表現出来ないものが、分かってないバンドやミュージシャンばかりなんてね。ただ、ギターをギュイーーーンと鳴らして、それらしい歌詞を歌えばいいなんて、話にもなりませんよね。お仕着せのロックやポップスはもうウンザリ。
そこで古いあの時代にも今よりはるかに素敵なバンドがいた、という意味で紹介したのが、親しくさせてもらっっていたAPLYL FOOLです。小坂忠(vo)、菊池英二(故人g)、柳田ヒロ(Kyd)、細野晴臣(b)、松本隆(d)の5人組は69年に、すでにワールド・スタンダードなことを日本人の感性でやっていたんです。ぼくの一番好きな曲は「Sunday」ですが、映像は「April Blues」です。
このイベントはHPにも出ているように、「東京1969」という、ぼくの古い知り合いの音楽関係者、立川直樹(通称ミック)さんが書いた単行本の意図にそう形で行われているいろいろな催しものの一環です。
詳しいことはHPを参照して頂くとして、やっぱりぼくの言いたいことは、今の日本にどれだけ素晴らしいロックが生き残っているのか?という素朴な疑問です。ほとんどがメディア主導の大量宣伝、大量消費タイプのものばかりで、愛やら絆やらのバーゲンみたいな歌や歌い手ばかり。中には例外的に「おおっ??!!」と思わせるものもあるけど、チャートとかランキングの中にはそういう「グッ」と来るものはまずありません。
いろいろかけて話をしましたが、みなさん、ぼくとおなじような印象を抱いている方ばかり、みたいでした。ロックでなきゃ表現出来ないものが、分かってないバンドやミュージシャンばかりなんてね。ただ、ギターをギュイーーーンと鳴らして、それらしい歌詞を歌えばいいなんて、話にもなりませんよね。お仕着せのロックやポップスはもうウンザリ。
そこで古いあの時代にも今よりはるかに素敵なバンドがいた、という意味で紹介したのが、親しくさせてもらっっていたAPLYL FOOLです。小坂忠(vo)、菊池英二(故人g)、柳田ヒロ(Kyd)、細野晴臣(b)、松本隆(d)の5人組は69年に、すでにワールド・スタンダードなことを日本人の感性でやっていたんです。ぼくの一番好きな曲は「Sunday」ですが、映像は「April Blues」です。
2009年6月8日月曜日
奇妙でクレイジーでチョーKOOLなバンドーThe Pink Fairies
アメブロでも紹介しましたが、ここでもやります。
つまり、最近、またなんだかロックがマスコミの餌食になりそうなニオイがしてるんで
しかし、あんまり悪口や批判はしたくないけど、今時のロック、それもJ-POP,J-ROCKとかって、どこがどういう風に面白いのか、まるで理解できないんですが・・・。かと言って、スカパーとかの「洋楽」PVとか見てても、なんじゃこりゃぁ?ってのがたくさんいます。それが、メーカーによると「今世紀最大の衝撃」とかって・・・んな大げさな!!??ぼくがレコードやCDを購入している某ショップのネット通販のレコード・キャプション(宣伝文句)くらいに大げさなら、まあ、笑うしかないんですけどネ。
そんなクラッシュのメンバーの口からもしょっちゅう名前とか出ていた(具体的でなくても)、彼らと同じ地区、ロンドン西の郊外、蚤の市でおなじみのポートベローからノッティングヒル・ゲート、奥の方のギャズなんかが住んでいるラドブローク・ロードとかシェパーズ・ブッシュ、全体的にはチズウィック地区(THE WHOの出身地)。このへんは、かつて戦前は郊外の美しい住宅街として人気の的だったとか。でも、やがて戦後になり、労働力としてのジャマイカ移民らが戦争で荒廃したこの地に囲い込まれてからは移民街となり、特に60年代末から70年代半ばまでは、いろいろな社会的紛争の絶えない街になっていった。今は、そんなに危険ではないらしいけどネ。
そんな危険な地域だったこの界隈で、60年代末から70年代初期にかけて、ここを根城にヒッピーイズムなコミューン生活圏を築いていた集団がいた。それは、政治的な主義主張で結ばれていたのではなく、単に、あの時代の空気にあおられて、酒とドープの日々を音楽とともに過ごしたかった若者たちのコミューンだった、のかもしれない。クラッシュのメンバーたちは、そういう昔のヒッピーたちを毛嫌いし、しかし、反面では音楽的には評価もしていた。
最初に現れたのはTHE DEVIANTSというバンドで、これは故ジョン・ピールからも絶賛され、一時的に話題になり、ポリドールというメジャーと契約するまでに至った。リーダーでボーカルでギターも詩曲も作るミック・ファーレン率いるこのバンドは、当時としてはきわめて型破りな音楽スタイルと信条を持ったバンドだった。アメリカかぶれのヒッピー野郎などとも揶揄されるが(クラッシュもそう言ってた)、その実際はそういう一面もあるが、明らかにそれまでのイギリスのロックには少なかった、体制批判や政治的な攻撃性を秘めていた。アーティスティックであり、アナーキックでもあった。ゆえにGOD OF PUNKなどと評されたのだ。
サウンドは、それでも決してハードとかではなく、むしろ、穏やかなフォーク風のものさえあった。そういう意味ではアメリカのTHE VELVET UNDERGROUNDやTHE STOOGES,THE FUGSなんかと共通する部分が多くあったように思える。
しかし、今回は彼らが主役ではない。その後に70年代になって生まれたバンド、THE PINK FAIRIESがそれ。
彼らは、もともと、THE DEVIANTSであった。つまり、かのミック・ファーレン、THE DEVIANTSのリーダーが、そのあまりのわがままぶりでほかのメンバーから放逐されてツアー中のアメリカから、仕方なくイギリスに帰ってきて、懲りずにまたメンバーを集めてバンド作りを始めたことに起因する。そしてソロを1枚作り(『MONA THE CARNIVOROUS CIRCUS 』)、その時のメンバーが、元プリティ・シングスのTWINK(ドラムス)とスティーブ・ペルグリン・トゥック(元ティラノザウルス・レックス)で、レコーディング以外でも彼らは仕事をし、その時にはすでにPINK FAIRIESを名乗っていたという。ところが、ここでまた内紛。例のごとくファーレンとほかの二人とが対立し、バンドはあっさり解散。70年初めの頃らしい。
しかし、TWINKはバンドの構想は気に入っていたようで、ファーレンの残したTHE DEVIANTSのメンバーたちが帰国するのを待ち、バンドを結成、ここに正式な意味でのTHE PINK FAIRIESが生まれた。メンバーはTWINK(DsVo),ポール・ルドルフ(G),ダンカン・”サンディ”・アンダーソン(B),ラッセル・ハンター(Ds)、という布陣。ツイン・ドラムというのは予期されたアイデアではなく、たまたまラッセルがドラムだったからだとのこと。
70年春、彼らはロンドン郊外チョークファームにある(今はないです)ライブ・ハウス「ラウンドハウス」(元は機関車の操車場だったため円形の建物で、そう呼ばれていた。ぼくも一度73年にCHICKEN SHACKを見に行きました)で初ライブを行い、以後、活発にライブなどの活動を行うようになる。折しも野外フェス全盛期。今の日本と似てるねぇ。その中で、彼らは当時話題の中心だったワイト島フェスと同じくバース・フェスに対する意義を唱える団体と行動を共にし、会場の外部であえて反ワイト等コンサートとか反バース
コンサートなどを繰り返し行い、それによりアンチ商業主義勢力の先鋒として注目されることになった。おかげで、メジャーからのオファーも多く受け、結局ポリドールと契約した。
そして、翌71年1月についにデビー・シングルをリリース。ぼくらの目に留まることとなる。シングルは「The Snake c/w Do It」で、特にB面の「Do It 」はTWINKの作品で、68年のアメリカはシカゴでの民主党大会での暴動協議で訴追された、いわゆるシカゴ7の一人、過激な思想家と言われたジェリー・ルービンの同名の本に感化されたもの。この曲は、後年、77年にロンドン・パンクが吹き荒れた時に「Do It '77」としてリミックス・バージョンで再発され、一部で(ぼくもそのひとり)話題になった。
そして3月からいよいよ1stアルバムのレコーディングにかかり、およそ3週間で仕上げ、その夏に発売されるもさすがに大ヒットとはいかず、密かなマニアのお楽しみとなり、それは今日まで脈々と地下の水路で人知れず眠り続けてきたのだ。あー、もったいない。
この直後、TWINKはバンドをやめ、それでも彼らはあと2枚の作品をリリースすることになる。
では、ここで参考までにWIKIPEDIAでの彼らの項目から少し抜粋。
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THE PINK FAIRIES
Origin
London, England
Genre(s)
Psychedelic rock, proto-punk, prog rock, pub rock, punk rock
Years active
1970–1976; 1987–1988
Label(s)
Polydor, Stiff, Demon
Associated acts
The Deviants
Mick Farren
Hawkwind
Motörhead
Former members
Paul Rudolph
Duncan Sanderson
Russell Hunter
Twink
Mick Wayne
Larry Wallis
Martin Stone
Andy Colquhoun
The Pink Fairies were an English rock band active in the London (Ladbroke Grove) underground and psychedelic scene of the early 1970s. They promoted free music, drug taking and anarchy and often performed impromptu gigs and other agitprop stunts, such as free outside the gates at the Isle of Wight pop festival, the Windsor Free Festivals as well as appearing at the first Glastonbury outing and Phun City.
History
The group were formed when the three musicians from The Deviants (Paul Rudolph) (born 14 June 1947, Vancouver, British Columbia, Canada) – guitar and vocals; Duncan Sanderson – bass (born 31 December 1948, Carlisle, Cumbria); Russell Hunter – drums (born Barry Russell Hunter, 26 April 1946, Woking, Surrey), having sacked their singer and leader Mick Farren (born Michael Anthony Farren, 3 September 1943, Gloucester, Gloucestershire),
2009年6月5日金曜日
昨日はロニー・レインの命日でした
昨日、6月4日はロニー・レインの命日でした。
彼が亡くなったのは、97年の6月4日でしたから、今年で12年目、いわゆる13回忌になります。前にも書いたけど、彼については今では多くの人がその早すぎた死を惜しみ、悼んで、ネットを少し見ただけでも多くのコメンタリーや情報が得られます。
ぼく自身、彼の存命中には、そんなに特別な感情で接した覚えはないんですが、それでも、一応はSMALL FACESの時代からリアルタイムで見聞きしてますから、存在は十分に認識していました。そのスモール・フェイセス時代では主役のボーカル/ギターのスティーブ・マリオットの良き相棒としてソングライターとしても貢献し、オルガンのイアン・マクレイガンと共に、「センスのいいモッドなミュージシャン」としても渋い味を出していました。
その後、ステイーブが抜け、新たにロッド・スチュワートとロン・ウッドのコンビが加入して来てからもアクの強い二人の陰で、その変わらぬイメージとソングライターとしての才能とで、バンドを支えていました。
そして73年に、日本人ベーシストのテツ山内と交代し古巣を離れてからも、ソロとして活動を行い、ザ・フーのピート・タウンゼントと共にアルバム『ラフ・ミックス』を制作するなど、地道ながら着実に歩を進めていました。
そんな彼に突然の不幸が襲ったのは77年頃のことで、彼の祖母もそうだったらしいんですが、きわめて珍しい病気にかかり、以来、20年にわたり病魔と闘いながら、音楽活動を行い、ついに97年の6月4日に惜しまれつつ世を去ったのでした。
彼の音楽はあくまでイギリスはロンドンの下町、イーストエンドから離れることなく、しかし、街の音、というよりイメージとしては実にのどか、おおらか、牧歌的でさえあり、都会の喧噪とは無縁のように見えますが、それでもやっぱり、ぼくには下町の路上で培われたセンスが彼の本質じゃないかと思っています。
ソロになってからの音楽はバンド、スリムチャンスと共に奏でるものを含め、常にアコースティックでトラッド・フォークの香り高いものがほとんどでした。マンドリンにフィドル、アコーディオンなどの楽器編成もそれを裏打ちしています。でも、アメリカに拠点を移してさえも、彼の雰囲気はやはり「英国的」でした。アメリカンなC&Wとは明らかに違う世界がそこにはあったと思います。
今からでも彼の音楽を体験するには遅くはありません。彼を好きになれたら、多分、その分またあなたの音楽の世界がグッと広くなるはずです。映画「RONNIE』のサブタイトルは「モッズとロックに愛された男」でしたが、それは単なる宣伝文句ではなく、真実の一筋です。月並みですが、彼はいないけれど、彼の音楽は永遠に生きるのです。それを聴くものがいる限り。
映像はソロのシングルで代表曲の「How Come」。イイ味出してますよね。
彼が亡くなったのは、97年の6月4日でしたから、今年で12年目、いわゆる13回忌になります。前にも書いたけど、彼については今では多くの人がその早すぎた死を惜しみ、悼んで、ネットを少し見ただけでも多くのコメンタリーや情報が得られます。
ぼく自身、彼の存命中には、そんなに特別な感情で接した覚えはないんですが、それでも、一応はSMALL FACESの時代からリアルタイムで見聞きしてますから、存在は十分に認識していました。そのスモール・フェイセス時代では主役のボーカル/ギターのスティーブ・マリオットの良き相棒としてソングライターとしても貢献し、オルガンのイアン・マクレイガンと共に、「センスのいいモッドなミュージシャン」としても渋い味を出していました。
その後、ステイーブが抜け、新たにロッド・スチュワートとロン・ウッドのコンビが加入して来てからもアクの強い二人の陰で、その変わらぬイメージとソングライターとしての才能とで、バンドを支えていました。
そして73年に、日本人ベーシストのテツ山内と交代し古巣を離れてからも、ソロとして活動を行い、ザ・フーのピート・タウンゼントと共にアルバム『ラフ・ミックス』を制作するなど、地道ながら着実に歩を進めていました。
そんな彼に突然の不幸が襲ったのは77年頃のことで、彼の祖母もそうだったらしいんですが、きわめて珍しい病気にかかり、以来、20年にわたり病魔と闘いながら、音楽活動を行い、ついに97年の6月4日に惜しまれつつ世を去ったのでした。
彼の音楽はあくまでイギリスはロンドンの下町、イーストエンドから離れることなく、しかし、街の音、というよりイメージとしては実にのどか、おおらか、牧歌的でさえあり、都会の喧噪とは無縁のように見えますが、それでもやっぱり、ぼくには下町の路上で培われたセンスが彼の本質じゃないかと思っています。
ソロになってからの音楽はバンド、スリムチャンスと共に奏でるものを含め、常にアコースティックでトラッド・フォークの香り高いものがほとんどでした。マンドリンにフィドル、アコーディオンなどの楽器編成もそれを裏打ちしています。でも、アメリカに拠点を移してさえも、彼の雰囲気はやはり「英国的」でした。アメリカンなC&Wとは明らかに違う世界がそこにはあったと思います。
今からでも彼の音楽を体験するには遅くはありません。彼を好きになれたら、多分、その分またあなたの音楽の世界がグッと広くなるはずです。映画「RONNIE』のサブタイトルは「モッズとロックに愛された男」でしたが、それは単なる宣伝文句ではなく、真実の一筋です。月並みですが、彼はいないけれど、彼の音楽は永遠に生きるのです。それを聴くものがいる限り。
映像はソロのシングルで代表曲の「How Come」。イイ味出してますよね。
2009年6月2日火曜日
銀河のロマンス
最近、ずっと頭の中で鳴っているのがザ・タイガースの懐かしい曲たち。
なんでかな?田園調布の銀杏並木をチャリで駆け抜けてると、昔の明治チョコレートのCMに使われた「落ち葉の物語」が自然に聴こえてきちゃうし、こうしてPCとかの前で作業していても、いろんな曲が次々と流れて来る。
で、今は、普通にCDを流してます。
タイガースと言えば、もうジュリーですよ。今の沢田研二さんもいいんですが、ぼくの記憶の中に生き続けているのは、やっぱり、昭和のスーパーグループ、ザ・タイガースで、初期の頃、「ヒューマン・ルネッサンス』以前の杉山こういちさんが作曲した一連のヒットたち。
気品溢れて優雅で実にポップ。ピーター・フランプトンのいたTHE HERDみたいにね。
なんでかな?田園調布の銀杏並木をチャリで駆け抜けてると、昔の明治チョコレートのCMに使われた「落ち葉の物語」が自然に聴こえてきちゃうし、こうしてPCとかの前で作業していても、いろんな曲が次々と流れて来る。
で、今は、普通にCDを流してます。
タイガースと言えば、もうジュリーですよ。今の沢田研二さんもいいんですが、ぼくの記憶の中に生き続けているのは、やっぱり、昭和のスーパーグループ、ザ・タイガースで、初期の頃、「ヒューマン・ルネッサンス』以前の杉山こういちさんが作曲した一連のヒットたち。
気品溢れて優雅で実にポップ。ピーター・フランプトンのいたTHE HERDみたいにね。
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